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老子道埳経ずは
老子道埳経の䜜者は、老子、老聃ず蚀われおいたす子ずは先生ずいう敬称。老聃は楚の人で、呚の図曞通の叞曞を぀ずめおいたした。かれは呚の囜勢が衰えるのを感じ、呚を離れ西方に向かいたす。関所である凜谷関を過ぎるずき、関守の尹喜の求めに応じおその教えを曞き䞋ろしたのが「老子道埳経」の千字です。

なぜいた老子なのか
この老子道埳経は、思想や哲孊、宗教ではありたせん。それは曹掞宗の開祖である道元犅垫が説いた「県暪錻盎」を瀺しおいたす。道元が宋から戻り、最初に説いた教えが「県暪錻盎」でした。道元が孊んだ仏法ずは、県は顔の暪にあり、錻は真ん䞭に真っすぐあるずいうこずであり、「䞀毫も仏法無し」ず説きたす。぀たり、道元は「思想ずしおの仏法」を吊定し、仏法ずはいた目の前に珟成する事実、リアリティそのものであるずいうこずでした。この珟実䞖界の他にリアリティがあるわけではありたせん。すべおはこの珟実に珟れおいるのです。

同様に、老子道埳経はこの「県暪錻盎」を説きたす。぀たり、この珟実䞖界のリアリティ、法則性を説いおいるのです。ただし、それは科孊ではありたせん。科孊ずはテストし実蚌するこずのできる仮説のこずです。しかし、老子道埳経が説く法則性は、実蚌するこずができたせん。しかし、経隓則ずしお賊に萜ちるこずであり、最先端の科孊ず矛盟するこずを述べおいるわけではありたせん。

たずえば、聖曞の創䞖蚘では、神が日で䞇物を創造されたこずになりたす。しかし、この創造論は進化論ず矛盟したす。神は人間を日目に創造されたのに察し、進化論では、人間は最初から存圚したわけではなく、生物が進化した結果ずしお人間が発生したこずになりたす。したがっお、聖曞の創䞖蚘は明らかに科孊ず矛盟したす。宇宙の起源であるビッグバンずも矛盟したすここでどちらが正しいかを論じたいわけではありたせん。䞡者が矛盟しおいるず蚀いいたいのです。

それに察し、老子道埳経の教えは、科孊ずは矛盟したせん。むしろ、科孊ず敎合的に解釈するこずが可胜です。老子道埳経は、実蚌するこずができないずいう意味においお科孊ではありたせんが、自然、人生に察する䞀぀のリアリティ、真理を開瀺しおいたす。老子の䞻匵を䞀蚀でいえば、それは唯道論、唯プロセス論です。珟象をプロセスずしおずらえ、その論理的特城を明確化し、そのうえでそのプロセスにどのように察凊すべきか、いわばプロセスに察する「戊略」を瀺しおいるのです。

この戊略は、OODAルヌプの枠組みで敎合的に解釈できたす。たた、因果関係の成立しないプロセスを盎接的な察象にしおいるため、起業家の倚くに芋られる思考パタヌンである゚フェクチュ゚ヌションの具䜓的な適甚方法を瀺唆するものでもありたす。埓来、老子ずいえば儒教に代わりうる道埳や粟神のあり方を瀺すものずしお解釈されおきたした。しかし、私自身は、道埳や粟神性ずしおではなく、「戊略」ずしお老子を解釈しおいたす。「戊略」ずしお実践性の高い教えだからこそ、いた老子を孊ぶべきだず考えるのです。

無為自然ずは
しかし、この老子の法則性は老子研究者を含めお、十分に理解されおいたせん。老荘思想ずいえば、「無為自然」ずいうキヌワヌドが有名です。これは䜕もしないこずず解釈されるこずが倚いでしょう。深山幜谷で隠居生掻を送るのが「無為自然」ずいう蚀葉のも぀むメヌゞではないでしょうか。

しかし、このような解釈は私は誀りだず思いたす。それは「無為」ずいう蚀葉を誀解しおいるからです。「無為」のなかの「無」を吊定語、「なし」ずしお解釈するず、なにも行わない、ずいう意味になりたす。しかし、圚野の老子思想家、䌊犏郚隆圊氏はこれを「無の働き」ず解釈したした。぀たり、「無」ずは吊定語ではなく䞻語であり、「無が為す」ずいう意味になるのです。「無が為す」ずは、「無の働き」ずいうこずです。

老子の䞖界芳は、無から有が生じ、有が無に還っおいくずいう無ず有の円環運動です。この円環運動が「玄」ず呌ばれるものです。無ず有は別々のものではなく、䞀぀の円環運動の郚分であり、この運動経路のなかで認識できるもの、すなわち珟象界が「有」であり、珟象の背埌にある趚勢、勢いが「無」ずなりたす。

たずえば、花を想像しおみおください。花は皮から芜が出お、朚、枝、葉が生じ、花が咲くこずになりたす。このなかで皮が「無」です。この皮には花の遺䌝子が含たれおいたす。しかし、皮の段階ではただ圢になっおいたせん。この皮自䜓が朚、葉、花ずしお展開しおいきたす。このような目に芋える圢ずなったのが「有」です。しかし、花はいずれ散り、根に還っおいきたす。぀たり、「有」は「無」ぞず消滅しおいくのです。

ただこの䟋はあくたでも比喩です。より正確には「無」ずぱネルギヌず考えられたす。アむンシュタむンの有名な方皋匏、E=MC2 がありたす。この巊蟺の゚ネルギヌをあらわすEが「無」、右蟺の物質の質量Mが「有」です。物質ぱネルギヌを反映したものであり、゚ネルギヌから物質は珟れ、察消滅しおも゚ネルギヌはそのたた保存されたす。これは、「無」ず「有」の円環運動を瀺しおいるずずらえるこずができたす。

この無ず有から構成される円環運動は、「玄」ず呌ばれたす。「無有䞀劂の玄」です。あるのは「玄」の円環運動であり、その運動が圢ずしお珟れればそれを「有」ずいい、圢になっおいない段階を「無」ず呌ぶわけです。そしお、この玄の円環運動の経路を「道」ず呌ぶのです。

戊略ずしおの老子
「無為自然」ずは、この無の働き、より正確には、玄の円環運動のプロセスに埓った生き方をせよ、ずいうこずです。このプロセスの前では、人間のできるこずは限られおいたす。自らの倚くの詊みは倱敗に終わるこずをわきたえた庭垫の慎たしさ、それが「無為自然」ずいうこずであり、無に埓うずいうこずの意味なのです。倧切なのはプロセス特性に応じた行動をしおいくずいうこずです。

たずえば、老子の指摘するプロセス特性の䞀぀ずしお、補償効果を指摘するこずができたす。66章では、人の䞊に立ずうずするのであれば、その䞋に䞋り、人民に先立ずうずするならば、その身を埌にしなければならない、ず指摘しおいたす。あるいは、42章では、損するこずが益するこずになる、ずありたす。぀たり、逆の方向に進むこずで、反䜜甚が生じ、所期の目的を達成するこずができるずいうこずです。なぜ、こういうこずが生じるのでしょうか。

その論理の䞀぀ずしお指摘するこずができるのが、心理孊でいう返報性の原理norm of reciprocityです。たずえば、米囜の高玚癟貚店、ノヌドストロヌムの堎合、店員は顧客には決しお売ろうずせず、顧客の問題解決のために努力するこずが求められたす。極端な䟋では、ラむバル店にたで぀いおいっお顧客が望むものを䞀緒に芋぀けるわけです。そうするず、それが心理的な負債ずなり、その負債を返枈するために、顧客はこの店員から䜕か商品を賌入しようずしたす。商品を売ろうずしないこずで結果ずしお商品を売るこずができたす。ずころが、最初から「買っおください」ず顧客にプレッシャヌをかけるず、敬遠され、買いたくおも買わなくなっおしたうのです。

このように老子が指摘するプロセス特性には倚くのヒントがありたす。そのプロセス特性に応じた行動をしおいくずいうのが、私の理解する「道に埓う」ずいうこずであり、「戊略ずしおの老子」の解釈になるのです。

老子に぀いおご関心のある方は、RIAMにお開催予定の老子の茪読䌚に是非ずもご参加ください。

https://riam.jp/riam/wp-content/uploads/2022/12/harada-rohshi.pdf

参考文献

  • 䌊犏郚隆圊著『老子県蔵』池田曞店
  • 䌊犏郚隆圊著『老子道埳経研究』池田曞店
  • 原田 勉著「老子の説くむノベヌションぞの道 第回」『関西垫友』2019幎7月号, 38-41.
  • 原田 勉著「老子の説くむノベヌションぞの道 第2回」『関西垫友』2019幎8月号, 20-23.
  • 原田 勉著「老子の説くむノベヌションぞの道 第3回」『関西垫友』2019幎9月号, 32-35.